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脅迫とは?/ アイフル

[ 322] 脅迫メール顛末
[引用サイト]  http://www.asahi-net.or.jp/~VD8A-MKM/badmail.htm

ホームページを持ち、インターネットを長くやっていると、毎日様々なe-mailが飛び込んできます。私のホームページの感想を書いてくれたありがたいメール、仕事上のメール、友達からの他愛もないメール....
しかし歓迎すべきメールばかりではありません。ねずみ講まがいの迷惑メール、訳の分からない商品を案内したダイレクトメール等々。その多くは「くだらないものを送りつけてきやがって。」と削除してしまえば事は足ります。ダウンロードした時間が損害となるだけで、こちらには危害は及びません。
この内容を見たときの怒りは相当なものでした。今まで迷惑メールの類は受けたことがありますが、これほど悪質なものは初めてでした。なによりも冒頭に私の名前を出して狙い打ちしてきたことがショックでした。
内容を見てもわかる通り、このメールは充分に「脅迫罪」の要件を満たしています。刑法を少しでも勉強した人が見れば、これは「脅迫」よりも罪が重い「強要」に当たることがわかります。絶対送信者を突き止めようと決心しました。
まず相手のメールアドレスですが、これは明らかに偽造されたものです。読んでみると「ハッハッハッ、バーカ」。次に「メッセージID」と「レシーブド」の行を慎重に解析した結果、発信もとのプロバイダーを割り出すことが出来ましたので、抗議のメールを送りました。
1回目の回答は「慎重に調査します。」。そして5日後に来た2回目の回答は「これは刑事事件なので警察に被害届を出して下さい。警察からの要請があれば会員情報を提供します。」とのこと。この対応には不満がありますが、取り敢えず警察に行くことにしました。
最初に行ったA警察署の対応はあまりよくありませんでした。対応したのはインターネットどころかパソコンのこともよく知らない刑事さん。人の話をメモも取らずに聞き、「いたずらですね。気にしないで下さい。」で終わり。
憤懣やるかたなく、その対応を警視庁に電話で抗議。対応した人に「同様の例で実際に被害届は出ている。」と言質をとり、今度はB警察署へ。ここでの対応はよく、被害届を提出しました。
犯人は判明しましたが、今は「様子見」の段階です。脅迫メールは1通だけというのが警察の腰を重くしているようです。高校2年生のKをどうするかは今後検討することになります。
私の名前とメールアドレスはホームページからとったのだろうから、きっと君はこのページを見ていると思う。馬鹿なことしたね。無言電話をかけろと指定した相手は、君の高校の先生じゃないかな。その人との間で、どんなトラブルがあったかは知らないけど、人の迷惑も少しは考えて欲しい。
君がやったことは「脅迫罪」よりも罪が重い「強要罪」にあたる。3年間は刑務所に入らなければならないんだ。君は未成年だからもっと減刑されるだろうが...。 君の名前、住所、電話番号、高校名、クラス名、ID番号、全部知っている。警察を経由して、プロバイダーから教えてもらった。だから私も安心して脅迫メールを公開することが出来る。
今、私の周りは、初めてかもしれないから許して上げよう、という声が支配的だ。私も「仕方ないかな」と思い始めている。但し2回目はないからね。再び同様のメールを送りつけたとき、君はその罪を償わくてはならない。
君のホームページも見たけど音楽が好きなんだね。その世界で一生懸命頑張って欲しい。何事にも一生懸命取り組めば、変な考えは起きなくなるよ。

 

[ 323] ベーシック・インカムという脅迫 - 過ぎ去ろうとしない過去
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080506/p1

「魚を取ってやるのではなく魚の取り方を教えるのだ」は最近みんなが大好きなたとえですが、実際に先進国が途上国に対してしたことは異なっていて、つまり「魚を直接取るよりも釣りざおをつくって魚と交換してもらえばよいじゃない」と吹き込んだのです。かくして魚が取れなくなって釣り人が魚を売らなくなったとき、可哀想な釣りざお職人は飢え死にしたのでした。
ぼくはこんな醜悪な記事を書く人に尻尾を振る人々が全く理解できないのですが、ともあれこれはある種の主張ではあるし、ベーシック・インカムという言葉に踊らされてうっかり賛同したくなる気持ちもわからないではありません。
ベーシック・インカムが始まれば、当然それで飲んで打って買うものも出るだろう。しかしそういった行動にオカンのごとく文句を付け、「正しい行動」を押し付けるのは、自由主義の主張に悖る。ベーシック・インカムの世界においては、それで身を持ち崩すことに対する言い訳は出来ないのだ。繰り返すが、ベーシック・インカムは、その意味において決して優しいだけのものではない。それをどう活かすかは、自分の頭で考えねばならないのだから。
ダンコーガイは、「意見を半強制的に提出させる仕組み」としてBIはあるといいます。しかし我々は「正しい行動」を取るように強いられているわけですから、「意見」の内容ももちろん限られてきます。つまり、我々は「投資」を行わなければいけません。「投資」の内容は証券だったり、あるいは自分への教育だったり様々ですが、少なくとも我々はなんらかの「生産性の高さ」を獲得しなければいけないという点では一致しています。そして、その「生産性の高さ」の基準は、市場つまり資本主義によって決定されるのです。つまり、われわれはBIを得ることによって「資本主義のシステム」において「正しい」行動を取るように強いられるのであり、またそのようにして取られた「正しい」行動は、また「資本主義のシステム」を維持発展させるのに役立つのです。
ところで、「正しい行動」があるということは、「正しくない行動」があるということです。たとえば浪費により身を持ち崩すことは「正しくない行動」にあたります。では、「正しい行動」を取る「正しい人間」と、「正しくない行動」を取る「正しくない人間」は、根本的に違う人間なのでしょうか。そうではない、とダンコーガイのようなBI支持者は言います、今は「正しくない人間」でも「正しい人間」になることが出来る潜在能力はあるのだと。BIは、「正しい人間」になってほしいという期待なのだと。しかし、既に述べたように「正しくない人間」は死ぬしかないのですから、「正しい人間」になることは期待ではなくて脅迫であることは間違いありません。いわば、ダンコーガイのBIとは、我々を「資本主義のシステム」に適合する人間に強制的につくりかえるシステムであるといえるでしょう。そしてその論理は、帝国主義あるいはグローバル資本主義といった、歴史的にみられる資本制の支配の論理とまったく一致しているのです。
近代的な資本主義を、普遍的で善きものと捉える考え方においては、人が資本主義に取り込まれることは善いことであるとみなします。資本主義は、「正しい行動」を取る限り誰でも恩恵を享受できるシステムだと考えられているからです。その考え方において、新たな参入者が現実に置かれている「搾取」という事態は「正しい行動」を学ぶための代償として正当化されるのです。ここでも前提は「正しい行動」と「正しくない行動」があり、またあらゆる人間には「正しい行動」をする契機があるということです。
1550年にスペインのバリャドリードで二人の宗教家がおこなった論争、いわゆるバリャドリード論争は、この問題を考える上で示唆を与えます。新大陸におけるインディオの奴隷化を肯定する神学者セプルベダと、インディオの解放を訴える神父ラス・カサスの議論です。セプルベダが引いたのは、当時の最先端学問であったアリストテレス哲学です。主人と奴隷は生得的に決定されるというこの古代ギリシアの哲学者の議論を根拠に、インディオは本来「キリスト教を理解できない」奴隷となるべき存在だとセプルベダは言います。それに対してラス・カサスは、インディオは「今は」キリスト者ではないが、教育によってはよきキリスト者になれる契機を有しているのだと主張します。結局カトリックの牙城スペインはラス・カサスを支持しインディオを解放するのですが、それを単純に「人種差別」に対する「人道主義」の勝利と見ることはできません。何故インディオを奴隷にしてはいけないかというと、インディオがインディオであるからではありません。インディオは「キリスト者」になれるから、奴隷にしてはいけないのです。トドロフは言います。
つまりキリスト教が対立、あるいは不平等を知らないのではなく、キリスト教における対立とは信仰者と不信仰者、キリスト教徒と非キリスト教徒の対立なのである。ところで、どんな人でもキリスト教徒になることができる。つまり、事実としてある差異と本性の差異とは一致しないのである。
さて、はたしてこの議論はほんとうにインディオを解放しているのでしょうか?インディオは確かに奴隷ではなくなりましたが、またインディオがインディオとして生きることもまた否定されています。つまり、彼らは善きキリスト教者にならなければいけないのです。もしそうならないとするなら、誰かが彼らを導かねばなりません。その過程で当然彼らの自由を制限することもあるかもしれませんが、それは仕方が無いことなのです。帝国主義時代の植民地主義者の論理は、この「キリスト者」が「近代資本主義」に変わっただけでありました。自由主義者のJ・S・ミルでさえ、植民地の人間達は自由を行使するに値しないというパターナリストでした。こうした序列化に疑問をもつ人間が提示したのは、差異の論理です。かくしてセプルベダの復活です。そして搾取は「正しい人間になりえない者」と「まだ正しい人間ではない者」の対立の中で、両方において行われるのです。
そして、この「まだ正しい人間ではない」という理論を内面化してしまった人間は、湯浅誠氏が言うように「自助努力」に頼りすぎて苦しむことになります。そしてダンコーガイ的BIはそれを補強するのです。キリスト教への入信がまず自らを悔い改めることから始まるように、BIは貧しい人々に今までの自分の「正しくない行い」を悔い改めさせると同様に、社会が彼らを搾取する免罪符にもなるのです*1。そのような欺瞞に加担するのはもうやめるべきではないでしょうか。何もBIで無くても、生活保護の拡充と基準の緩和、教育・医療の無償化、最低賃金の設定や雇用保険の充実など、現実的に出来る社会福祉はたくさんあるわけです。歴史や社会理論に無知な理系崩れが考えたシャカイコーガクなどに関心を向けるよりも、もっと蓄積された運動を検討するべきでは無いでしょうか。
財源の話をしろとうるさいので言っておくと、西欧先進諸国並みの社会福祉が実現するなら、これも欧州にならって生活必需品を非課税にしたうえで消費税20%にでもすればいいんじゃないでしょうか。もちろんお金持ちにはそれ以上に払っていただく税制をなんらかの形で用意しましょう。能力の高い人のやる気が……とか、海外に資産が……などとゴネるなら革命しかありません。そもそも社会におけるプライオリティを考えれば財源の話などできなくなる、というのが正しいはずなのですが。
二つも関連エントリがあがったので、BIについて何を仰りたいかは大変よくわかりました(僕の中で、でしかありませんが)。別段、お礼を言われる筋合いはないと仰るかもしれませんが、ありがとうございました。でも、やっぱりよく分からないよ!>つまりただ「生きさせろ!」の手段としてBIを考えるか、それとも自己責任・自助努力といったものを覚えさせ、資本主義社会に適合させるための教育的効果としてBIを考えるか、つまり”Arbeit macht frei”の門をくぐって収容所に追い込むための貨車としてBIを考えるかこれ、運動が前提にないと意味なくないですか?後者は嫌というほどに蔓延してるけど、BIでも従来型の社会福祉の拡充でもいいんだけど、それが実現されたとして現行の社会で前者的な意味を獲得できるのでしょうか。別に意識=社会革命なくして貧困層の救済なしみたいなことを言うつもりはないですけど(行為主体の意識を云々するのは偽善的です)、相変わらず、食わせろ!ていうのに対して働け!ていう人が9割以上いる土地で政策だけ先行ってもなーという虚しさが湧いてきます。ワタクシが反動的なんでしょうか??分捕って何が悪いと考える人が多数派になればいいのに!
そこで外部注入論です。それはともかく、構造が変わったら案外みんな分捕って何が悪いと考え始めるかもしれません。問題はどのように構造を変えるか、または変えうるかです。つまり運動が前提になるのは確かですけど、運動の話になると「行為主体の意識」について好む好まざるに関わらず考えざるを得なくなって頭を抱えます。ブルデューのハビトゥスなんかが、示唆を与えないかなあとか思ったり。←適当
税金をろくに払わない金持ちなんて、国家から見たら厄介な寄生虫でしかないと思うなあ。こういうのを優遇することが「国家の利益になる」という人はナニ考えてんだろ?競争社会の勝者は、基本的に敗者を踏み付けることはあってもタダで助けることは絶対にしないよ。現に私がそうだからね。
>外部注入論なんだっけ、それ。前衛党主義の関連用語だっけ。ボル用語はようけ分かりません。うーんとね、別に動員をどうするとかいう技術的な問題でなくて、もっと「ナイーブ」な疑問でコメントしてた。何分、電波なものですから、話が見えなくて申し訳ないというかごめんなさいというか。hokshuさんの論に基本的に異存はなくて、BI導入が端的に資本主義に適合した形でしか議論されず、またそのような形でしか受容されないのなら意味をなさない、というのはそのとおりだと思います。ただ、既存の社会福祉政策の拡充にしたところで、それが現今の西ヨーロッパで実施されていて、ある程度具体的に参照にできるとしても、結局のところ資本制にくみ取られないような形での福祉ってのがありうるのか疑問なのです。昔、家事労働に賃金を!という合言葉があったけど、あれだって敵対を前提にしたある種の断絶の言説だったはずで、実際に実施されたら(されてなかったと思うのだけれども、もしかしたらされてる?)それって端的に私的領域における労働を公然化してしまうわけで、うまくいけば労働に関する一般的通念を変えられるかもしれないけれども、下手をすれば単に労働が全面化するだけにならないかな、と思って。でも、絶対窮乏論じゃないけれども、むしろ問題が公然化した方がいいのかなとも思うし、どっちか迷ってるのが実情です。福祉の拡充でもBIでも資本制の論理に抗する形で制度を構築できるのかな、ってのがコメントした動機です。もちろん、何でもいいからとっとと金よこせというのは正論なので反対はしないのですけれども、そのあとのことも考えておかないとなし崩し的に取り込まれて終わり、だと結構反動が大きくならないかな、と(でも、それだとBIの方が大きいのかな。制度的破綻を云々されて、小規模な運動とはいえ今ある運動体も活力を失っちゃうとしたら害は大きい気もするし)。えーとね、だから多分hokushuさんにぶつけても仕方のないことなんですが、継続的に批判的な作業を続ける運動とある程度の自律性を持った空間を確保しないと、何がしかの成果が得られてハイお終いになると悲惨だなあ、という要らぬ心配というか不安がよぎりましたものですから…うん、なんか場違いなコメントでコメ欄をいたずらに汚してしまい申し訳ありませんでした。というか、最近、個人的な関心として永続的な革命闘争としての運動というのが良いのか悪いのかという神経症的パラノイアにかかってるだけです。すみません。
あ、いや、それは確かに重要な問題で、もちろん福祉が資本制に取り込まれてしまう危険性はたぶんにありえます。西欧の社会福祉思想なんかはまあラッサールなんかもいたわけで、必ずしも資本主義と妥協した帰結としての福祉国家とも言えない、ある種の独立した反資本主義の意志というものが無いわけじゃないんですが、とはいえ、というのはありますよ。ただまあ経済的自由のための私的領域の過度な尊重が、現代の悲惨を産んでいるという側面もあって、だとするならば、もうちょっと政治的なものを社会において復権させるというか、もちろん内容が問題なんですけど、そういのがあってもいいんじゃないかと思います。

 

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