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合理とは?/ アイフル

[ 261] H-Yamaguchi.net: 「合理的な豚」を説明してみる
[引用サイト]  http://www.h-yamaguchi.net/2006/01/post_701f.html

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「合理的な豚」は、簡単にいえば2頭の豚がエサを争う競争ゲームだ。得をするためにどういう戦略をとればいいかが問題になる。
まずは以下の図をご覧いただきたい。別のところで使ったものの使い回しなので「見たことあるぞ」という方もいるかもしれないが。
まずはスライドの下にある豚の絵の説明。大きな檻の中に、大きい豚と小さい豚の2頭がいるとする。大きい豚は、小さい豚に比べて食べるのも早く走るのも速い。2頭は腹を減らしている。エサ箱は2頭のすぐ近くにあるが、蓋がしまっている。この蓋を開けるには、遠くにあるスイッチを押さなければならない。近くにスイッチを押してくれ人間はいないので、自分たちでなんとかしなければならない。エサはエネルギーに換算して合計6.0ある。スイッチを押すために走ると往復でエネルギーを0.5消費する。で、大事な点だが、豚たちは自分の利得、つまりエネルギーの正味獲得量を最大にしたいと考えていて、その目的に沿って行動する。だから「合理的」な豚、という名がついているわけだ。これが問題のセッティング。
で、豚たちがエサを食べるためには、誰かがスイッチを押さなければならない。スライド左側の表は、大きい豚と小さい豚がそれぞれスイッチを押しに走った場合に得られるエネルギーの正味獲得量、つまり食べたエサのエネルギー量から走るのに要したエネルギー量を引いたものをあらわす。( )の中に数字が2つあるが、最初の数は小さい豚、あとのほうは大きい豚のエネルギー正味獲得量だ。たとえば(1.5, 3.5)とあれば、小さい豚が1.5、大きい豚が3.5のエネルギーを正味で獲得したということ。2頭の豚がそれぞれ走るか走らないかという二者択一を行うので、起こりうる状況は2×2で以下の4通り。
右下の「どちらも走らない」場合、どちらの豚もエサを食べることができないが走らなくてもいいのでエネルギー消費もゼロ、よって正味獲得量はいずれもゼロとなる。
左下の「大きい豚が走る」場合、小さい豚は走らなくてもよく、しかも先に食べられるので、正味5.0のエネルギーを獲得する。大きい豚は、走った分出遅れて1.0しかエサを食べられず、しかも走った分0.5消耗して正味で0.5を獲得する。
右上の「小さい豚が走る」場合、小さい豚は走ってスイッチを押したはいいが、エサにたどりついたときには大きい豚にもう全部食べられてしまい、エサの獲得はゼロ。走った分だけ損をして、正味で-0.5。大きい豚は、走る必要がなくエサをすべて食べられるので正味で6.0。
では、2頭の豚はどのような戦略をとったらいいか。一見、食べるにしても走るにしても、大きい豚が圧倒的に有利なようにみえる。能力がまさっていることは、競争上有利だと考えるほうが「自然」だろう。
小さい豚の立場になって考えてみる。なぜこちらから考えるかはあとで説明する。それぞれの豚は、自分は走ったほうが得だろうか損だろうかを考える。しかし問題は、相手がどう行動するかがわからないことだ。相手のとる行動によって自分の損得が変わり、したがってとるべき戦略もちがうことはよくある。そこで、場合を分けて考える。
まず、大きい豚が「走らない」場合(図の右側半分)。この場合、自分が走らなければスイッチは押されず、2頭ともエサを食べることはできないが、だからといって自分が走っても、大きい豚にすべてエサは食べられてしまう。どちらにころんでも、どうせエサは食べられないのだ。走らなければエネルギー正味獲得量はゼロ(図の左下)、走れば-0.5(図の左上)となる。だったら走る分だけ損ではないか。したがって小さい豚にとって合理的な行動は、「大きな豚が走らないのであれば、自分も走らない」となる。ちなみに、相手の戦略に対して自分がとるべき戦略を「最適反応戦略」という。この場合、「大きい豚の戦略が『走らない』の場合の小さい豚の最適反応戦略は『自分も走らない』だ」ということになる。
次に、大きい豚が「走る」場合(図の左半分)。この場合は、大きい豚がスイッチを押してくれるので、自分が走っても走らなくても、エサを食べることができる。だったら、走る分だけ損だ。それに、自分も走ってしまったら、大きい豚のほうが速く走れるのだから、自分の食べられる量が減ってしまう。走らなければ5.0(図の左下)、走れば1.5(図の左上)を獲得する。当然ながら、小さい豚にとって合理的な行動は「大きい豚が走るのであれば、自分は走らない」となる。
こうしてみると、実は、小さい豚のとるべき行動は、大きい豚が走っても走らなくても、「自分は走らない」となることがわかる。悩まなくていいのだ。どちらの戦略をとるか考えても意味がない。どうせ選択の余地は事実上ないのだ。ちなみに、相手がどう出ようが自分の戦略が変わらない場合、これを自分の「支配戦略」という。このケースでは、小さい豚の支配戦略は「走らない」だ。
ここで重要なのは、この問題において、小さい豚の戦略は、大きい豚の戦略について何も知らなくても決められる、ということだ。これは問題のセッティングによってこうなっているわけだが、こうなっているがゆえに、わかりやすい結果がきちんと出てくる、という点を意識しておきたい。手法についていえば、ゲームのプレーヤーの一方に支配戦略がある場合は、そちら側から考え、次いで相手方について考える必要がある。
さて、こんどは大きい豚の側を考える。小さい豚がどういう手に出てくるかはもうわかっている。どうせ小さい豚は走らないのだ。図でいえば、大きい豚にとって意味のあるのは下半分だけとなる。とすればどうするか。
大きい豚が「自分も走らない」と決めれば、両者とも取り分はゼロだ(図の右下)。走った場合、せっかく自分が走ってスイッチを押すという労をとったのに、エサは大半小さい豚にとられてしまう(図の左下)。ずるいではないか。不公平ではないか。でもしかたがない。これが「ゲーム」のルールなのだ。とすれば、「大人の対応」が求められる。不公平ではあるが、自分が走らない場合(ゼロ)と走る場合(0.5)とでは、走るほうが得をする。ならば得するほうをとるのもしかたがない。
以上から、この問題では、「小さい豚は走らず、大きい豚が走る」が最適な解となる。小さい豚、大きい豚の双方とも、ちがう選択をとれば自分が損をするから、自分から選択を変えることはない。こういうのをナッシュ均衡という。ほっとくとここに落ち着く、ということだ。実際、自分の目で見たわけではないが、豚で実験したら本当にこういう結果が出たらしい。「合理的な豚」というより、実は「豚は合理的」だったというオチ。
で、このモデルの親戚筋としては渡辺隆裕「図解雑学 ゲーム理論」(2004)に出てくる「瀬戸際戦略」なんかがある。追い詰められたほうが瀬戸際戦略をとると、相手側は呑まざるを得なくなるという話。某国を思い浮かべるとたいへん実感がわくと思う。ビジネス系では、大手企業が小さなベンチャー企業にしてやられるケースなどであてはまる例があると思う。ほかにもいろいろ考えられるだろうが、ここでは立ち入らない。要するに、強くて選択の余地があって、かつ正面衝突ではデメリットが大きい者と、弱くて選択の余地がないか、あるいは致命的な結果になっても気にしないなどの事情がある者との競争では、後者に引きずられてしまうという話だ。競争上の優位が戦略上は弱点になるというのは、なんだか想像力を刺激するではないか。
「柔をよく剛を制す」というような事象はこのように「合理的」に説明可能なのですね。ありがとうございました。
どうも自分のリアルに持ち込みすぎなのかも知れませんが、「大きい豚は、小さい豚が餓死するまで走らない。」というのが大きな豚にとって最適解な気がするのですが、いかがでしょうか?
たまたま今晩複数の子どもといっしょにいました。彼らはじゃんけんと「円」に見立ててコインのようなものを使ってポーカーのような、「勝ったものがすべてをとる」みたいなゲームを発明して遊んでいました。「借金」とか、かなりいろいろなルールを工夫していました。これを見てて思ったのは、それでもどうも最初の頃に勝ちを重ねた子どもが生き残り、負けを重ねた子どもは「破産」してゲームからはずれていくという現象が起こっているように思われました。
小さいブタの体力が一週間と仮定して、はじめの7日間は両者ともに0ポイントだが、大きいブタはそれ以降は寿命が尽きるまでの数千日間に渡って6ポイントを得られるようになる。35日後には、元を取れる計算になる。これこそが大きいブタにとっての最も合理的な戦略であると言える。
よって、ブタは全く合理性に欠けているか、または合理性を追求しているのではなくフェアな形での共存を追求しているかのどちらかと言える。
柔よく剛を、というと柔軟性があるほうが有利のようにも見えますが、この例では柔軟性がある(選択の余地がある)方が不利になります。
ゲーム理論のモデルは、設定されたルールを守るとすれば、という前提ですので、その案は「反則」です。というか、1回の選択ですべてを決める、というルールを説明し忘れたというべきかも。繰り返しゲームになると、当然ながら持久戦に持ち込むとか協調するとかいろいろな戦略が可能になり、結果も異なってきます。
上にも書きましたが、このモデルでは「待つ」はルール外です。要するに、私がゲームの前提をちゃんと説明してなかったということです。本文に書いた通り私の「負け」ですね。
現実の豚がこのモデル通りに行動したというのが本当だとするとこれをどう解釈すべきかというのは、面白い問題です。豚には長期的な考慮はできないということなのか、別な理由によって短視眼的に行動するのがより適切であるということなのか。
モデルを離れて「現実」を考える場合、どこまでを考慮に入れるかは難しいところです。「待つ」という戦略を視野に入れる場合には、待っている間にエサが腐ってしまうおそれ、ねずみが隙間から箱にもぐりこんでエサを食べつくしてしまうリスク、夜寝ている間にエサを盗まれるリスク、明日精肉業者に売られてしまうリスクなど、他のさまざまな不確実性も同時に考える必要があると思います。どこまで考えれば「合理的」ですか?考えてみれば「待つ」という戦略は、待ってもエサはなくならないという「信頼」があって初めて成り立つわけで。
そう考えてくると、「食べられるときに食べておく」というのは、ある意味で不確実性の中に生きる動物として合理的な選択なのかもしれませんね。
とはいえ、弱い立場でも、強い立場であるものを自分の有利に動かすことが出来る場合もあるというのは良くわかりました。
「ゲームのように単純な」というより、「ゲーム理論でよく語られるモデルのように単純な」ですね。ゲーム理論は、「解ける問題もある」という類のものですから。囚人のジレンマも含め、有名なのはいずれもシンプルで明快な解がある場合です。
もしよろしければ上記の渡辺さんの本もどうぞ。お会いしたことのある方ですが、説明がとてもお上手でした。読んでませんがきっとわかりやすいのでは。このアフィリエイトじゃなくてもいいですから。
欧米人のほうが、というのは、実はそうでもないかも、と思います。古今東西、優れた戦略家はいるもので、意識しているかどうかは別として、理論に沿って、あるいは理論を超えて行動しているのではないかと。「日本人よりも」というのは、今の日本のリーダーたちよりも、ということでしょうね。
相手のとる行動がわからないというゲームの命題において、相手の走る速度などは知っているという時点で、このモデルは答えの決まっている博打の要素も無いゲームと思えます。囚人のジレンマでは、合理的な解をとらない事で、それ以上の利益を生む場合があります。
大きいブタが気の毒に思えるのは、北朝鮮外交において、あまりに日本の食う餌が少なくて、ムカムカする心情でしょうか。個人的に弱者とは戦うべきでない局面があることは学ぶべきことと思いました(日本の外交の事じゃなく)。
ビジネスに当てはめるとしたら、夜中に両者寝てる間に餌を仕掛けるようなものだと思いました。朝早く起きたほうは、小さいブタでも、相手が寝てる間にスイッチ押して、たくさん食えるかもしれない。大きい豚は相手より先に起きても、寝たふりを続けるかもしれない。
ゲーム理論のモデルは、囚人のジレンマを含め、プレイヤーの合理的な行動を前提としていますので、合理的な行動をとらない場合は「想定外」です(確率的に行動を選択する混合戦略もありますが、それも全体として最適をめざす結果です)。
「合理的な豚」モデルは、弱者が必ず有利だというより、むしろ、一般的な予想に反して弱者が有利な場合もあるということを示しているのだと思います。
ビジネス面では、たとえば業界リーダーが自社の利益だけでなく業界全体の利益を考えて行動する場合などにあてはめられるかもしれませんね。競争相手に市場シェアを一部とられたとしても、業界全体を拡大したほうが自社にとってはメリットがある、みたいな。
「時間の矢 コンピュータシミュレーション、カオス―なぜ世界は時間可逆ではないのか?」(ISBN:4627153015 )という数式のいっぱい出てくる本をわけもわからないまま読んでいます。ポイントは、平たく言ってしまえばニュートン流の「可逆」な力学法則を、熱力学として個々の粒子にあてはめて、ある程度理論化した上で、多数体のシミュレーションを組むと、カオスだのフラクタルだのが出てく来て、時間軸について熱力学第二法則などが「非可逆」であることを立証するという内容の本です。
詳しい内容はさておき、「ゲームの理論」は一回こっきりの選択に適用されるという意味で、ニュートン力学的だと思うのですね。そして、それを多数の選択の相互作用としてシミュレーションすると熱力学、統計物理がそうであったように、またまったく別な世界観が出てくるのではないでしょうか?
全く門外漢のとんちんかんな考えかもしれませんが、思いついてしまったので、コメントさせていただきました。
カオス理論は門外漢なのでよくわかりませんが、それで時間の非可逆性が説明できるんですか。面白そうですね。
ただ、ゲーム理論とはちょっとちがったものだろうと思います。「1回こっきり」というのは、そういうゲームもあるということであって、ゲーム理論の中には繰り返しゲームなんかもあります。とはいえ、ある意味おっしゃることと近いと思うのは、ゲーム理論で解ける問題は全体のほんの一部で、ほとんどの問題はきれいな解が出ないってことですかね。
最適戦略は、小さな豚が走ってスイッチを押す。←小さい豚の方が同じ距離を走ってもエネルギー消費が少ない。
仲良く一緒に食う。取り分は基本的に体重に比例して配分するが、小さな豚は往復のエネルギー消費分だけ余計に食べる。
ただゲーム論的にいえば、彼らがそうするインセンティブがモデル内に備わっている必要があります。「モラル的行動」に効用がある、とか。その次の段階は、そのことがどのくらい「現実的」でかつ有益なインプリケーションをもたらすか、ですね。協調できるなら、そもそもこんなゲームのセッティングを考える必要もないわけですから。
いや、2頭が生存し続けることを前提にすれば、モラルの問題じゃなくて現実戦略としてこれが最適解だと思います。
左下が最適解というのは1回こっきりの場合で、同じことが延々と続けばどんな事態になるかは見えていますから。
「1回こっきり」というのはこのゲームのルールです。これを前提にした解ということですね。繰り返しゲームにおいて協力解が最適になるケースがありうるのはご存知の通りですが、それでも協力解が非協力解に優越するかどうかは、パラメータ等細部の設定によります。問題をセッティングした後は純粋に数学的な話なので。
そのセッテイングがどう見ても意外性のウケ狙いとしか思えないくらい無理がありますね。純粋に数学的でも、設定者の心は純粋でないような。
「意外性のウケ」狙いかどうかは知りません。イデオロギー化するかどうかは、使う人次第ですね。私は特に心配していません。「囚人のジレンマ」も別にイデオロギーとは関係ないですし。
ゲーム理論の専門家の方々はそうは考えていないようです。私は専門ではないので、そちらにお尋ねいただければと思います。
大きい豚さんが、小さい豚さんより「何倍早く」走れるのか表記がなかったので、図表から逆算するしかありませんでした。
私がやろうとしたのは、式なんか見たくもないという人にどうやったら説明できるかで、本当は数字も出したくありませんでした。
[日記] ケータイやネットができない小中学生の「地獄の未来」をシミュレーションしてみた。 (ネット小説家の小さな書斎)

 

[ 262] やっぱり貧乏人は合理的でないのかもしれないよ。
[引用サイト]  http://cruel.org/economist/economistpoor.html

貧乏人は減りつつあるし、その貧乏にでさえ選択の余地はある――最善の選択をするとは限らないかもしれないけれど。
世界銀行が 1990 年の『世界開発報告』で貧困者を数えようとしたとき、かれらは別に自分で新たに指標を作る期はなかった。マルティン・ラヴァリオン率いる経済学者たちは、すでにそこらに出回っていた 33 ヵ国の貧困水準線を集めてまわったのだった。インドの貧困水準線は、一日 2,250 カロリー以下の食事しかしていない人を貧困者と定義していた (訳注:欧米でよく使われる大カロリー表記。日本のカロリー表記だと2,250キロカロリーとなります)。ここから計算すると、この水準を満たすには典型的な地方部のインド人は 1960-61 年価格で月に 15 ルピー使えばいいことになる。
ラヴァリオンのチームは、ルピーやペソやルピアを同じ購買力の指標に換算した。1960 年にインド郊外で月に 15 ルピー使うというのは、1985 年のアメリカ人が 23.14 ドル使うのと同じくらいの財やサービスを買える。だがインドの指標は極端にひくいものだった。他の貧困水準線の 6 つ(インドネシア、バングラデシュ、ネパール、ケニヤ、タンザニア、モロッコのもの)はどれも、もう少しゆとりのある月 31 ドルに誤差数セントの範囲でおさまっていた。
だがこの数字は、それ以下にいる人々にとってどんな意味があるのだろうか。バナジーとデュフロは、コートジボワール(象牙海岸)からメキシコに至る 13 の家計調査に基づいて、貧困者の「経済的生活」を描き出している。インドの調査二つ――ウダイプールの農家とハイデラバードのスラムのもの――はこの二人が自分で実施した調査だ。
詩人ヴィクラム・セスの前職は経済学者で、こうした調査につきまとう「陰惨なるプライバシーの剥奪」について述べている。たとえば 2001 年には、世界銀行のチモール・レステ地方の研究者たちはこんなことを調べている:世帯の人々が水浴びをするときにはシャワーを使うか川へ行くか? トイレは水洗かくみ取りか? 家はれんがか木造か?等々。またこの一週間で食べ、飲み、噛み、吸ったものを全部思い出せという。カッサバかエビか? 豆かパパイヤか? 丁子タバコかビンロウか? ビールかやし酒か?
一日一ドルでは、選択の余地はあまりないように思える。空腹ほど厳しい制約条件はない。だがこうしたプライバシー剥奪の結果を見ると、貧困者も選択をしているようだ。そしてまた、その選択が必ずしも最善なものとはいえないらしい。
貧乏人はあまり文句はいわない、とバナジーとデュフロは述べている(ウダイプールでは、自分の人生が不幸だと感じる人は 9 パーセントしかいなかった)。だが文句を言うべき問題はたくさんある。空腹と病気のおかげで、多くの人はガリガリだ(ウダイプールの成人の 65 パーセントは体重過少となっている)。半分は貧血症だし、七分の一は視力障害を患っている。多くはこの一年で少なくとも一日は食事を抜かなくてはならなかった。
それなのにかれらは、可能なほど食べていない。バナジーとデュフロによると、ウダイプールの典型的な貧乏世帯は、アルコールやたばこや祭儀にお金を使うのさえやめれば、食生活を三割は改善できる。この祭儀というのは、結婚式やお葬式、宗教儀式に使うお金で、家計予算の一割にも達する。こうした支出は、現実逃避によるものかもしれない――貧乏人はいろいろ逃避したい現実に直面しているのだ――あるいは社会的な模倣によるのかもしれない。絶対貧困にいる人々でさえ、体面や社会的地位を気にするのだ。
著者たちは、貧乏人がお金をどう使うかだけでなく、どうやってそれを稼ぐかについても検討した。グンツールの町の貧困女性は、毎朝道に並んでドーサを混ぜては灯油ストーブで焼き、一つ一ルピーで売る。十時になると、みんな職をかえて酢漬け野菜やサリー刺繍やゴミ拾いに精を出すようになる。
開発経済学者にとって、貧乏人はどんなに状況が厳しくても合理的にふるまうというのは、ほとんど信仰信条に等しいものとなっている。かれらの行動が小規模すぎたり薄く分散しすぎたりして効率が悪くなっていても、それはかれらの計算間違いのせいではなく、土地や融資や保険の市場がかれらを裏切ったからだとされる。ある経済学者が 1993 年に論じたように、「四十年以上にわたる研究を見れば(中略)少なくともこうした連中が自分たちにとって本当に有益なのが何かわかっていないのだという発想は、完全に否定されるはずだ」というわけだ。
だがバナジーとデュフロの心中に再びわき起こっているのは、まさにそうした発想だ。たとえばなぜガーナの農民は、ある推計では 250〜300 パーセントの収益をもたらすはずのパイナップルをもっと栽培しないのだろうか? なぜ肥料を使うことの効果が十分に実証されているのに、西ケニヤの農民たちは肥料を使おうとしないのだろうか。
「貧困者は、お金をもっともたらすようなプロジェクトに心理的にコミットするのを嫌がっているのが感じられる」と著者たちは書いている。一日一ドル以下で暮らす人々は、正面から自分の状況を直視するのを苦痛に思うのかも知れないし、もっとよいものがあるのではないかと思うこと自体がつらいのかもしれない。「貧困にはすばらしい救いがあるのだ」とジョージ・オーウェルは、パリとロンドンのスラム街を徘徊した後でこう述べた。「それは人々に未来というものを直視しないようにさせてくれることだ」
おもしれー。確かにそういえば、貧乏な国ほどみんなタバコを吸う。なぜか、というのはなかなかおもしろい問題だ。貧乏人は酒タバコをやめればもっといい食事ができる! それをしない貧乏人どもはアホじゃ! 確かにその通り……かな?
突っ込みどころもいろいろある。他に娯楽がないから、というのはたぶんだれでも思いつく説明だろう。また多くのドラッグは、つらい労働に耐えられるようにするための鎮痛剤でもある。貧乏なのにタバコを吸うのではなくて、タバコを吸うからこそやっとその程度の稼ぎでも得られる、という可能性はある。いつぞやのコンドームの使用と同様に、余命との関係で議論もできるだろう。間抜けなブロガー諸君が、根拠レスな思いこみに基づく一知半解な仮説をあれこれしたり顔で述べる余地はいくらもあるので、精々がんばってほしい。
山形版の、必ずしも間抜けでない仮説を述べておくと、特にガーナの農民のパイナップルやケニアの農民の肥料は合理的な説明ができると思う。多くの世界の農家その他は、これまで「この方法はすばらしい」というのを導入することで痛い目にあった経験を持っている。たとえばフィリピンのナタデココ農家は、儲かるといわれて栽培してみたらすぐに市場がなくなって破産したり、ボストンのウニ漁師たちは日本市場の細かいウニの等級がわからず、ある年に大もうけしたと思ったら翌年のウニはまったく買ってもらえずにずいぶん苦労したりしている。失敗した新農法は無数にある。したがって「明らかに儲かる」と言われてそれをすぐには信じないだけの用心深さがあるのかもしれない。
また貧乏人の条件にはもう一つある。金を儲けても、その使い道があるか、ということ。カンボジアにアメリカが農業技術援助をしたら、収量がすぐに倍になってみんな喜んだそうな。これで余分の作物を市場で売って稼げば、みんな豊かになる、というのが援助したアメリカの計算だった。ところが数年して戻ってみると、村はちっとも豊かになっていなかった。調べてみると、収量が倍になったので、農民たちは畑を半分だけ耕してそれ以上は仕事をしなかった(シアヌークの自伝, My War, pp. 123-4)。理由は二つあって、一つは金を得ても特にほしいものがなかったということ。貧乏な村に売れない商品を持ってくる物好きな商人はいなかったので、それまでその農民たちは、お金で何が買えるのかまったく知らなかった。だから稼ぐインセンティブがない。またもう一つ、カンボジアはアジア的専政(© ウィットフォーゲル)国家にありがちなこととして、ちょっとでも余裕ができると役人等々がたかりにくるので、結局手元に残らない。目をつけられないためには余計なものを作らないほうがいいのだ。これは李氏朝鮮でイザベラ・バードが目撃した状況でもある(バード『朝鮮紀行』講談社学術文庫) 。
というわけで、合理性を疑えるかどうかは、ちょっと疑問なところもある。貧乏人は酒タバコと宴会をやめれば食卓は豊かになるかも――でも酒タバコと宴会こそが人生を豊かにするものだ、ともいえるわけで……どんなもんでしょうな。ちなみにアイン・ランドは、喫煙というのは火に対する人間の勝利を宣言する祝祭的な行為なのである(よって禁煙論者は人類知性と文明に対する敵である)と『肩をすくめるアトラス』で論じているけど、これまた彼女らしいアホな意見ではありますが、そういう面もあるのかもね(でもそれなら蚊取り線香でもつけたほうがいいと思う。特に途上国では)。まあこの研究を間に受けて、また世銀が「貧困削減のために禁煙を」とかいう馬鹿な運動を始めないことを祈るばかり。
あともう一つ、冒頭のグラフで貧困者の数も比率もぐんぐん減っていることは見逃さないでおいてくださいな。これはホワイトバンドなんかとは何の関係もないことはご理解を。あの連中が騒ぎ出すはるか以前から、貧困はどんどん減っているんだよ。連中がふりまわす、貧困が悪化しているとか改善されないとか、現在の政策がまったく効果がないとかいうデマにはだまされないでほしい。
ある一知半解な人間が、はてなブックマークで誤解を招くコメントをしていて、それに影響されている二次馬鹿もいるようなのでちょっとコメント。
この人物曰く「貧困の判断基準は所得そのものであって所得の使い方とは関係ないというあたりまえのことが理解されていない」
が、これはちっともあたりまえではなく、この人物の知識が不足しているだけ。まず貧困の基準は一つではない。文中で、インドが採用していた基準が摂取カロリーを基準にしていたことを思い出してほしい。要するに、その所得が食物に使われるかどうかというのがインドの基準では重要なわけだ。さらに 世界銀行が一日一ドルというとき、それは消費に注目しているケースが多々ある。以前の貧困記事の半ばあたりを見て欲しい。稼いだ金をどう使うか(少なくとも貯金か消費は)は重要なポイントだ。勝手な思いこみはよくないな。
またグラフの最下部が 9.5 億人になっているから、グラフがごまかしっぽいという主張をこの人物はしている (単位は billion だから 0.95 億じゃないよ。せめてそのくらいはまちがえないようにしようね)。でもそういう印象が出にくいようにグラフに処理がされているのに気がつかないかな。もとのグラフの足下がギザギザ線になっていて、しかも9.5億の線をつきぬけていることで、ゼロから生えているのではないということが明示されている。「いやおれはそんなことは気がつかなかった」と己の粗忽ぶりをふりかざす議論は可能だし、これが十分かどうかは議論がわかれるだろう。でもグラフがゼロから表示されていなかったらすべて印象操作という馬鹿の一つ覚えみたいな物言いは感心しない。そうした危険性を理解してそれに対する一定の対策が取られている点は理解すべきだろう。印象操作というけれど「これが絶対に正しい」というやり方があるわけじゃない。表現したいポイントの強調はあらゆる言説に存在する。それを他の配慮とどうバランスさせるかには、いろんなやり方がある。この記事のグラフは、それをかなりきちんと誠実にやっている例だろう。それを無視して(あるいは理解できずに)「印象操作っぽい」なんて言い立てることこそ悪意の印象操作じゃないかな。
(それとこれを「山形流詭弁術」なんて書いているところを見ると、まさかとは思うが、この人はこの記事をぼくが書いてると思ってるのかな? これは The Economist というえらい雑誌の記事を山形が翻訳して勝手なコメントをつけているだけですからね。この雑誌は招待記事以外は全部この雑誌の記者が書いているのです。)

 

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