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抹香鯨とは?/ ディック

[ 496] 抹香鯨の鉄道事故年表
[引用サイト]  http://home.t01.itscom.net/jikoku/jiko.htm

当ウェブページは、過去に発生し日本国内で大きな反響または影響を残した鉄道に関する事故について、簡単な概要などを発生年月日順に列記するものです。紹介する事故について、明確な選択基準はありません。個人的に活字媒体で見る機会が多いもの、後の鉄道や世間に何らかの影響を残したと思われるものなどを、適当に取り上げています。
これは、2003年8月時点でWWW上に鉄道事故の一覧表が存在しない現状を鑑み、まずはそのリストだけでもまとめておこうと考えて制作したものです。そのため、内容の厳密さより事故の日時と簡単な概要だけを紹介すれば良いものとし、内容の厳密なチェックを省いているため、意図的に、技術的に不正確な記述をしています。個々の事故についての深い情報や考察は、他のウェブサイトや文献をご参照ください。見栄えや読みやすさも全く考慮していません。内容の誤りがございましたら、メールや掲示板で指摘していただけると助かります。
当ページはリンクフリーです。転載および加工も自由です。雑誌やサイト上での紹介も承諾や連絡は不要です。当ページの内容について作者は一切の責任を持ちません。なお、作者への連絡は[ 掲示板 ]画面最下部にボタンがある「管理者へメール」機能をご利用下さい。
各事故の死傷者数は文献により差異があることが多いため、当ページではその最大数と最小数を記載することとします。公式な事故報告書があれば、その数字に訂正します。
1830年9月15日、イギリス・パークサイド駅付近で、鉄道会社の要請を無視して停車時間中に線路内に立ち入った人を列車がはねた。鉄道会社の設立の功労者である代議士が死亡。
線路内で転倒して逃げ遅れたもの。世界初の本格的な旅客鉄道の公式開業日で、乗客も運転手も不慣れな点があったと思われる。
長雨で線路脇の土砂が崩壊したため。客車が三等車で屋根がなく腰板があるだけの無蓋貨車風で簡単に潰れたことが被害を拡大したと思われる。
三等旅客の劣悪な客車設備が社会問題化し、1844年に「議会列車」が登場した。客車に座席と屋根を設置した平均時速20キロ以上の各駅停車を最低一日一本運行すれば5%の交通税を免除するという法律に基づく列車で、三等車のレベルアップを促し、三等旅客増大と運賃収入増加の相乗効果で鉄道利用の大衆化をもたらしたと思われる。
事故当日は列車が全面運休となった。また、1872(明治5)年の鉄道開業以来初めて、つまり日本最初の鉄道事故として歴史に刻まれた。なお、当時の新橋駅は後の汐留駅(荷物専用)で、現在は廃止。
当日は上り列車の前に西南戦争兵隊輸送のための臨時列車が設定されていたが、西宮駅で上り旅客列車とすれ違う予定の下り回送列車が、臨時列車の到着後に上り旅客列車の到着を待たずに出発したもの。当時は駅長同士の電信で列車運行が制御されていたが、下り回送列車は駅長の合図なしに出発したとされている。
日本初の鉄道死亡事故として歴史に刻まれた。また、1区間に1列車しか入れないようにする票券閉塞方式の導入が前倒しされた。
風速毎秒約40mの嵐の中で列車を運行したこと、全長3,552mという当時世界最長の橋梁について材質や設計や施工が未熟であったことが指摘された。
鉄橋材料の鋳鉄や銑鉄から鋼鉄への切替およびその改良を促すなど、橋梁建設技術の進歩に多大な影響をもたらした。また、おそらく施工監理技術の進歩にも役に立ったと思われる。
当時最新型の自動直通ブレーキの動作不良と思われる。衝突の衝撃で機関車と客車の連結が外れたため、乗客への被害が抑えられた。
機関車が駅舎を突き破り駅前広場に落ちた写真が残された。なお、世界初の時速300km運転を開始したTGV大西洋線のパリ側ターミナル駅はこの駅。
日本鉄道株式会社技師長の父子が、67パーミル(6.7%)の急勾配区間での列車退行に危機を感じ、自発的に列車から飛び降りたため。列車は約2キロ走行した後に熊の平駅で停止し、他の旅客に被害はなかった。この勾配での退行では約1分で時速100キロ超の高速になるから転覆必至という、技術屋の知識と計算があだとなったと語られる。
不運な話として現在まで語り継がれている。「横軽」蒸気機関車時代唯一の大事故として刻まれる。電気機関車アプト式時代と電気機関車粘着運転時代にも1回ずつ大事故が発生している。なお、事故区間は長野新幹線の開業に伴い1997(平成9)年に廃止。
1903年8月10日夕方、フランスのパリ地下鉄クロンヌ駅で、車両火災を鎮火したが再び燃えだしたエトワール発ナシォン行列車(電車6両編成)に、後続列車(電車6両編成)を連結して起動したら煙火災が発生、その後続列車も含め列車3本分の乗客が同駅で煙に巻かれた。
電気のショートによる。車両が木造で燃えやすかったことと、煙の中で地下駅の避難経路が分からなくなったことが被害を拡大したと思われる。
地下駅に火災報知器と階段の油ランプ照明が付けられた。また、パリ地下鉄の車両の鋼製化を促進したとされる。
1909年2月28日、北海道の宗谷本線の塩狩峠付近で、列車の最後尾車両の連結が外れて勾配を転げ落ちたという。車両停止操作に伴い乗客の鉄道職員1名が死亡。
東岩瀬駅で団体列車と行き違うはずの貨物列車がオーバーランして単線の本線上に飛び出し、駅に戻る途中に団体列車が突っ込んだもの。この場合には団体列車に対して停止信号が出るシステムになっているはずが、なぜ止まらなかったのかは不明。
現在でも使われている、列車のオーバーラン時に本線に出ず脱線する仕組み(安全側線)が整備されるきっかけとなった。なお、東岩瀬駅は1950(昭和25)年に東富山へ改称し、現在の富山港線東岩瀬駅は当時の越中岩瀬駅。
1915年5月22日、イギリス・カーライル近郊のキンティンスヒル駅構内で、上り本線に停車中の下りローカル列車に上り軍人輸送列車が衝突し支障された下り本線に下りグラスゴー行急行列車が進入し衝突、炎上した。
駅の信号係員が、上り本線に列車がいる状態で、隣駅に上り列車発車制限の情報を送らず、駅構内進入許可のレバーの固定を怠ったため。客車が木造でもろく燃えやすかったことと、進入両列車が高速であったことで被害が拡大したと思われる。
当時の同区間の運行管理方法は、閉塞器という機械から1区間に1枚の通票を出し、それを持った列車のみが該当区間を走行できる通票閉塞というシステム。古間木駅員が臨時列車の通票取扱をして就寝し、それを知らない別の駅員が通票の出ない機械を故障と判断、不正操作で貨物列車に通票を出したため、該当区間に両列車が進入してしまったもの。
急勾配区間を下る際のブレーキの制御ミスか故障によるもの。超満員による重量オーバーや、軍の命令による無謀運行も指摘されている。
2004年時点で、犠牲者数で世界最悪の鉄道事故として歴史に刻まれる。なお、この路線が経由するイタリアとフランスを結ぶモン・スニ峠は、1871年に欧州最初のアルプス越えトンネルで鉄路が結ばれた区間であり、ナポレオンのイタリア侵攻ルートでもある。
1918(大正7)年2月7日、群馬県の信越本線熊の平・軽井沢間で、上り勾配を走行中の下り貨物列車の電気機関車が故障、勾配を退行し熊の平駅で引込線に進入、トンネル内壁に激突した。乗務員が死亡。
電気機関車の故障によるもの。67パーミル(6.7%)の急勾配区間で、当時はレールの間に歯車を設置し電気機関車に噛み合わせて上り下りする方式で運行されていた。
「横軽」電気機関車アプト式時代唯一の大事故として刻まれる。蒸気機関車時代と電気機関車粘着運転時代にも1回ずつ大事故が発生している。なお、事故区間は長野新幹線の開業に伴い1997(平成9)年に廃止。
1919年11月3日、フランス・パリ郊外で、信号により停止中のシンプロン急行に後続のパリ発ジュネーブ行急行列車が衝突した。
関東大震災による鉄道事故では最大のものとして歴史に刻まれる。なお、熱海線は現在の東海道本線国府津・熱海間。
80パーミル(8.0%)の急勾配で速度が上がりすぎたため。通常運転の鉄道では日本最急勾配の路線であるため、電車には4種のブレーキが備え付けられていたものの、なぜ速度を落とせなかったのかは不詳。
豪雨災害によるもの。日本と大陸を結ぶ国内最優等の列車であり2分の遅延を取り戻すべく速度を上げていたことと、客車の車体が木製であり破壊されやすかったことが被害を大きくしたと考えられる。
荷が重く25パーミル(2.5%)の勾配を上がれなく、列車の停止でトンネル内に機関車の煤煙が充満したもの。1884(明治17)年完成の古いトンネルで内空断面が小さかったことも災いした。以前から列車運転上の難所と指摘されていた。
乗務員が煤煙に巻かれることを防止するために、全国の長大急勾配トンネルに遮断幕が整備され、一部の蒸気機関車の煙突に集煙装置が取り付けられた。現在はいずれも使用されていないが、いくつかのトンネルでその遺構を見ることができる。なお、事故区間は北陸本線のルート変更で1957(昭和32)年に柳ヶ瀬線となり、1964(昭和39)年に廃止。
1933年12月23日、フランスのフランス東部鉄道、パリ郊外のラニーで、パリ発ナンシー行普通列車にパリ発ストラスブール行急行列車が衝突した。
全国の主要駅に風速計を設置、風速による運行規制の考え方が生まれ制度化された。現在でもその考え方は生きている。
1937年12月7日14時頃、イギリス・スコットランドのキャッスルキャリ駅構内で、半分行き過ぎて停車中のダンディ発グラスゴー行急行列車にエジンバラ発グラスゴー行急行列車が追突した。
降雪でダイヤが乱れていた。駅の信号係員が停止信号を出し、両急行列車の運転手が進行信号を確認した。原因は不明。両列車とも信号雷管に気が付きブレーキをかけたが、ダンディ発列車は過走しエジンバラ発列車は止まれなかった。
政府の鉄道監査官が各鉄道会社に対して、駅構内に列車がいる際の停止信号の自動表示と、停止信号を無視した際に鳴る車内警報装置の設置を勧告したが、その設置は進まなかった。
1939年2月22日1時頃、ドイツ・ゲントヒン駅で停車中のケルン行特急列車にザールブリュッケン行急行列車が衝突した。
急行列車の信号確認ミス。第二次世界大戦中の戦時輸送で旧式木造客車が使用されていたことが被害を大きくした。

 

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