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かたちとは?/ ディック

[ 487] しあわせのかたち
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/

くだらない。あまりにくだらないし、それゆえむかっ腹が収まる気配がないのでブログに書いて分節化することにした(書くことで加速するかもしれんが)。
なんだ何が起こったまた青春かよ(今回はまた別の人だが)、と若干疲れた声で「どうしました?」と聞いてみると、その子、本日年上の同僚(妻子あるオッサン)から飲みに誘われたそうだ。
「2人で行こう」と誘われたそうだが、その子は身の危険を感じて後輩男子を同席させることを提案。結果3人で飲みに行ったそうだが、店を出た帰り道にうっかり2人きりになり、抱き締めてキスされたという。
「いま会議で人員整理の話が出ていて、Aちゃん(その契約社員の子)の名前も挙がっている。でも俺はAちゃんの味方だからね。残しましょうって言うからね」
「ねえショータさん、わたしが会社に残るためにはこういうセクハラに耐えなきゃいけないんですか。これからエスカレートしていったらどうすればいいんでしょう」
なら私がそいつを告発する。人員整理の話なんて出ていないんだ。あのクソジジイは人間として一番汚い方法で貴方にハラスメントをしやがったんだ。
「やめてください」と言う。「お願いだからやめてください」と。「会社にいられなくなります。整理の話が本当ではない、と聞けただけでわたしは充分です」。
もし告発したことで貴方が会社にいられなくなるんだったら、それは会社のほうがおかしい。そんな会社は社会的に罰を受けるべきだ。そうでないと会社もそのクソオヤジも増長するでしょう!
「いいんです。本当にもういいんです。わたしも油断していたところがあったし……次からは気をつけます。大丈夫。もう大丈夫ですから」
私の所属する会社は、契約社員の女の子にこんなことを言わせてしまうほど腐っているのか(書いてて泣けてきた)。
「今日わたしが話したことは絶対に口外しないでください。お願いしますお願いします。わたし、話したことで少しスッキリしました。今度あの人に誘われたらキッパリ断わりますし、訴えますよ、と言うことにします。だから大丈夫です」
すまない。本当に面目ない。私はそのクソジジイの同僚として、同じ会社の正社員として、そして男として、貴方にどう謝っていいのかわからない。*1
「大丈夫です。会社の男性が全員あんなふうだとは思っていませんし。今日は本当にありがとうございました。変な話しちゃってすいません」
彼女は傷ついている。明らかに傷ついている。その傷と比べると本当に申し訳ないほどに矮小でつまらないことだが、私の(自分の職種と職場に対して持っていた)ある種のプライドまでオマケで傷ついた。
私がネット上でフェミニストたちを相手にやれブレンダ少年がどうだとか、ジェンダーもセックスも共犯関係にある構築概念だとか言っているあいだに、そこらじゅうでこんなわかりやすくてくだらないセクハラが横行しているのが現実ってヤツなのかもしれない。
(追記)先ほど読み返してみたらやっぱり怒りが増してきた。いい大人である彼女が泣くほど傷ついたのは、クソジジイから単に性欲対象として見られたからではない。彼女がこれまで為してきた社会人としての仕事を取り引き材料として、(自分の安い性欲を満たすためだけに)身体を売り渡せと宣告されたことだ。それも曲がりなりにもわずかであれ、自身が所属する会社の人事権を持つ人間に!
*1:恥ずかしい話だが、以前社内で似たような話に遭遇したことはあった。あったけれどもその時はまだ、女性サイドにもう少し「計算」と「落ち度」があった。少なくとも今回のようにわかりやすいセクハラではなかった(少し掘り下げれば同じじゃないか、それは流したんだろ? ならアンタも同罪だ、と言われればまったく返す言葉もないが)
そう思うキッカケは、相手の知識量とか読書量とか論理展開力とか、発想力とか文章表現力とか、ましてや学歴や偏差値なんかではなくて*1、ある種の「修羅場をとおったあとのホンワカさを纏っている」としか表現できないようなエントリ群を読んだときですな。
もし仮に上記ご両名が当ブログのコメ欄にいらっしゃって(それがどんな話題であれ)「こりゃショータ! くだらないこと書いてるんじゃない! 謝りなさい!!」とか書いたとすると、私、アーもウーもなくモニタの前で背筋がピンと伸びて「ご、ごめんなさい」と打ち込んじゃうんですよ。たぶん。
これ、小生にとって、(それを認識することができない、という意味で)正しい用法での「トラウマ」に関係があったりするんじゃないかな、なんて思ったりするんですが、だとしたら考えるだけ無駄だよなあ、とも思います。
なんというか、ご両名のあの「ホンワカ具合」に関係があるような気もしているんですが(たぶんご両名ともに「ホンワカ呼ばわり」は納得がいかないと思いますがw)、どうなんでしょうね。非常に論理的ではないのですが、「何か」が前景化している気がするんですな。「北風はどう頑張っても太陽に敵わない」みたいなモノが。月並みですが、母性ってヤツでしょうか? それとも小生にとっての「知っていると想定された主体」? う〜ん、どちらもしっくりこない。
「自分には無条件で敵わないと思える生身のブロガーが少なくともひとりはいて、エントリをアップするとき、その人の視線を意識してしまう」
「そんな人はいねーし、いらん」と思う方のほうが多いとは思うのですが、ためしにひとり設定してみてはいかがでしょうか。姐さんライフハック。
*1:いや小生意外と小心者で権威主義的なトコがあるので、そういうので「敵わないだろうなあ」と思っちゃうこともあったりするんですが、そういう場合は「姐さん! 参考にさせてもらってます!」とは思わない。どっちかっていうと「先生」にしちゃう感じかな
かなり前の話。今よりも僕はずっとずっと言い訳をするのが好きで、理屈を説明するのが好きだったんです。
男友達と飲みながら「ラカンが何を書いてるのかわからない。後期ウィトゲンシュタインもチンプンカンプンだ」と文句言ってたのです。
したらまた、この友達が「じゃあ、わかった」と言うのです。「今から紀伊国屋の現代思想コーナー行って原書買ってこようぜ」と。
でも友達は、東口に抜ける地下道を指さして「あそこ通って、5階の右奥に行けばラカンだってウィトゲンシュタインだっていっぱい売ってる」と言い、店を出ようとします。
友達は「どうしてもわかんなかったら速攻で古本屋に売ればいいんだよ」と言ってましたが、オレが動こうとしないので行くのをあきらめました。
「じゃあ、オレが今から新宮一成や永井均の入門書を貸してやるから、それ読んでブログ書けばいいじゃん?そんで内田樹とか岸田秀とか上野千鶴子disればブクマ増えて注目エントリ入りだぜ?」
「それは…、だけど、ほら、村長もこの前言ってたじゃん。ブロガーは新書一冊読むのも負担だと思うから、現代思想系のネタはウケないって……」
「あ、そうだったね。…でもオレ、愚民だし、愚民は無知でも構わないと思うし。そこまでして賢く見られたいって思ってるわけでもないし…」
どうせ「わかりやすいラカンという表現自体おかしいなんていうのは、とりあえずラカン一冊でも読んでから言うべきだろ」と言えば、「そもそも1p目から何書いてあるのかわからない思想書に意味なんてあるのかよ」って言うし、
現代思想系のエントリでブクマが集まっているのを見せれば「ああいう安直な言い換えによるわかりやすさこそ、思想家が忌避すべきカタログ化なんじゃないか...」とか言うだろうし、
現代思想勉強したからって賢く見られるわけじゃない、けど莫迦には見られないだろって言えば、「いや、莫迦には見られないかもしれないけど、変態に見られる恐れが大だし」って何かにつけて言い訳するんだろ?
つーか、できない理由並べて、今の自分を否定させずに、わかってもらおうとするその魂胆がだせぇ、と。
オレにはオレの事情があるんだ、時代はニューアカブームじゃないんだ、しょうがねぇじゃんかよって。浅田彰の『逃走論ースキゾ・キッズの冒険』読みながら(笑)
元気ですかそうですか。小生は頭頂からヒナゲシの花が咲いてくるんじゃないかっていうくらい忙しいですははは。
それでもまあエントリでも起こしたいなと思う話題がいくつかあって、メモっておかないとそのまんま忘れちゃうので本日は「いつか書くかもしれない話」をいくつか断片的に書いて置いておきます。
ちなみにそれぞれ別エントリにしなかったのは、以下に書いたことがそれぞれ少しずつつながっている気がしているからです。ただその「つながっている」部分、縦糸になる部分をうまいこと言語化できる自信がさっぱりありません。
「驚くべきことなんですが、彼は感情が薄いんですよ。言葉にならない寂しさとか切なさとか、逆に美しさとか嬉しさとか、そういうことに対する堪らないもどかしさとか、そういう情感がわき出てくるっていう状態を理解できないんです!」
世間には「言葉はいつも、想いに足りない」っていう情感を、経験したことがない人がいます。けっこうたくさんいるようです。
それとは別に、上記とは別の女子友から先日いただいたメールに、以下のような一文があり、これまた心に引っ掛かっています(無断転載ごめんなさい。今度ちゃんと謝ります)。
最近私の周囲の女友達2名がとらわれているっぽい「言葉にならないもどかしさについて」は、何度か本ブログで論じてきたことなのだけれども(それは「恋愛」という契機で鋭く前傾化する……ことが多い等)、そのうちまた書きます。はい。*1
上記エントリでリンクされていた稲葉振一郎のナウシカあるいは旅するユートピアがたいそうすばらしく、ユートピア思想の密教と顕教について考えることが最近のマイブームとなっている次第。
これはよく語られていることですけども、ナウシカという作品はアニメ版とマンガ版でそれぞれ主張していること(特に「救世主」や「ユートピア」や「生と死」についての考え方)が真逆になっています。書くまでもないかもしれませんが、顕教としてのアニメ版、密教としてのマンガ版が、正しくそれぞれの読者数(視聴者数)とパラレルになっていて大変興味深かったですね。*2
そんなこともあってナウシカ関連の論文でも読もうかな、なんて考えていたのですが、パタパタと検索なんぞをしていたらいくつかのエントリ(論文)が引っ掛かりました。*3
■ディズニー・アニメーションとフェミニズムの受容/専有(藤森かよこの日本アイン・ランド研究会)
上記リンクの大野さんが以前「ナウシカは授業で5年以上使っている」と書いてらっしゃるとおり、戦闘美少女の元祖とも言えるナウシカはフェミニズム批評にとって非常に使いやすい題材だろうなあと思います。
特に文学理論系において(「女性学」ではなく「性差学」と捉えるべき)「フェミニズム」は必須とも言える隣接領域であり、『現代批評理論のすべて』(新書館刊)というマニアックな本の「はじめに」では、編著者である大橋洋一(日本英文学会会長)が「フェミニズムを学びたくないなんていうヤツは、文学を学ぶ資格がない」というような趣旨の一文を書いています(私もそう思います)。
あんまり政治運動には使わないでね、政争の道具にしないでね、とは、大野、藤森両先生に伝えおきたい所存です(いやご両名が「使っている」というわけではないのです)。
ご両名が使ってるわけでもないのになんで私が「政争の道具に使わないでね」と思ってしまったかというと、ひとつは上記エントリの筆者である藤森かよこ先生が訳している『抵抗する読者』(ユニテ刊/ジュディス・フェッタリー著/鵜殿えりか、藤森かよこ訳)を読んだからというのと*4、以下のことがあってここしばらく考え込んでいるからです。
歴史学と歴史修正主義についての感想はid:kanoseさんが無知・無関心であることが中立という考え/「どっちもどっち」という罠というエントリで書いていることにほぼ同意しており、特に以下の部分、
無知・無関心であることが中立を主張させるのではないか?という推測。政治性を忌避することが政治性を生むことへの意識のなさ。最初、政治性を忌避することの政治性に対して無自覚なのか?と思ったんだけど、いろいろな議論を見ていると、別に無自覚ではなくて、それを利用している人が多い印象。
確かにこれはいろいろな場面でありそうなので、気をつけたいところ。ブログ同士での小競り合いのようなレベルにおいて「どっちもどっち」という認識を持ってしまうのはしょうがないけど、今回の南京事件のように過去に膨大な議論があった上での議論において「どっちもどっち」という認識は避けたいところ。
これが「ブログ同士での小競り合い」なら話は早いし、「プロvs.アマチュア」や「学者vs.手品師」ならすでに決着している問題なのですが、これを「歴史学vs.歴史修正主義」だと捉え直すと火種が少し燃え残ることになるし、もっと突っ込んで「歴史学vs.構築主義」(しかも「プロ対プロ」だったりする)となるとさらに大火事になったりするケースもあったりします。
具体的に言うと、上記「小競り合い」を読んでいて私が「ありゃ〜」と思ったのは上野千鶴子が従軍慰安婦問題に対し、フェミニズムをベースにした構築主義的歴史観を語ったら、歴史学者からフルボッコにされた件を想起してしまったあたりです。
上記内田ブログのエントリはかなりコンパクトにまとまっているのですが、さらにザックリ要約すると、以下のようになります。
構築主義者・上野千鶴子の意見「歴史とは常にある観察者の偏った視点で語られるものであり、その“偏り”に無自覚であってはいけない。しかし既存の歴史学ってそこらへん、無自覚だよね。特に文書ばっかり重視して証言を取りあげないあたりに、政治性をビンビン感じちゃうなぁ。もっとポストモダンとか勉強したほうがよくない?」(注/こんなバカっぽい口調ではありません)
歴史学者・上野輝将の反論「そのケンカ、俺が買った。アンタの言う“証言をもっと取りあげろよ”だってバリバリ政治ぢゃねーか。どの文書を取りあげるか、どの証言を歴史とするか、そしてそれをどのように捉えるかって時点で政治性が組み込まれるのは当たり前の話であって、それについて無自覚なのはお前のほうだろボケ。歴史学なめんな」(注/こんなアホっぽい口調ではまったくありません)
この(「歴史家からフルボッコに遭う」という)構図は構築主義の父祖のひとりとして称揚されているミシェル・フーコーに対してもすでに為されていることだったりします(山形浩生訳によるキース・ウィンドシャトルからのフーコー批判や、イーグルトンが『イデオロギーとは何か』で書いた*5フーコー批判参照)。
これは歴史学やフェミニズムや文学にかぎらずあらゆる学問に通底することだと思うのですが、学者であれ衒学趣味者であれブロガーであれ、誰しも「知れば知るほど語れなくなること」という隘路に差し掛かることがあります。
どうすりゃいいのかなぁ、と私は思うのです。思ってそして、「まぁあれだ。間違ってたらフルボッコにされりゃあいいか」と思い直して、ポツポツと語るわけです。
*1:たぶんソシュールとかウィトゲンシュタインとかラカンとかそういうのを使って書くことになると思うんだけど、おそらくそれって女友達がいま悩んだり苦しんだり諦めたりしていることの解決にはまったく関係ないんだよね。それが少し悲しかったりする。でもまあなんというのかな。どうなんだろう。最近「私は貴方のことを気に掛けております」ということが伝わればそれでいいか、とも思うし。「転移」と言ってしまう手前の「知っていると想定された主体」ってそういうことなのかなぁなんてことも思うしね。友達は大事にします。私はいつも、貴方の声を聞く準備があります。あれ? なんか俺傲慢な気がするが気のせいか??
*2:マンガ版の最も重要なテーマは(アニメ版で賞揚された)「青き衣の救世主伝説を退ける者としてのナウシカ」です。人は誰しも物語に依って生きていくものですが、物語が物語であるがゆえに、そこにはつねにすでにある種の虚無感を胚胎します。マンガ版は「それをどう乗り越えるか」という物語なわけですね。そこにおいてマンガ版のナウシカは「倫理を背負う背徳者・裁定者」として描かれます。また、ナウシカ(とクシャナ)の「物語」に対する葛藤はいろいろなところで語られているのですが、「宮崎さん、その葛藤はすでに『攻殻機動隊』の素子が通りすぎた道です」という指摘はどこかでされているのかな?(アニメ版『ナウシカ』は83年、マンガ版『攻殻』は91年、マンガ版『ナウシカ』完結は94年、アニメ版『攻殻』は95年。誰か年表作って!)ここで問われているのは「生のあり方」と、それを位置づける「正義」と「自由」の問題です。裁定者としての素子@攻殻はそれを「51%(以上)の正義」、「よりマシな自由」と位置づけており、そのために他者と闘い、裁き、時に欺き、殺します。そしてナウシカも最終的にはそこに辿り着いています
*3:個人的にはここで触れられている、『カリオストロの城』のヒロイン・クラリスの写し絵としてのナウシカという論考が大変興味深かったです
*4:フェミニズム批評の入門書として読むなら最適な本だとは思います。思うのですが、、、あえて乱暴に言ってしまえばこの本、私には「(特に米文学において)女の抑圧が描かれた作品は女性嫌悪的文学だ。そして女の抑圧が描かれていない作品はよく訓練された女性嫌悪的文学だ」と読めてしまうのです。どうすりゃいいのよ。本書の冒頭の一行目にあるとおり、文学とは政治的なものです。つねにすでになんらかの政治性が刻印され、政治利用されるものです。そうした認識は正しいのですけれども、しかし、「政治性が刻印されるものである」ということと、「政治的に利用する」ということでは天地の開きがあるのではないでしょうか。内田樹の悪しき影響を受けすぎですかね、私? もしもアメリカ文学が「女性嫌悪が刻印されている」というのであれば(それはおそらく正しい)、ジュディス・バトラーが指摘したとおり、ある種の絶望(私はフェミ批評に対するジェンダー批評をそのように捉えました)から語るべきだと思うのです。我々はジェンダーとセックスという共犯関係にある権力につねにすでに縛られており、そのように組成されてしまっている、という絶望から語るべきではないか、と。そして何より重要なのは、フェミニズム批評が「数ある文学批評理論のひとつにすぎない」ということを、ぜひともこの『抵抗する読者』に盛り込んでほしかったのですが……そうした記述は本書には見あたりません
*5:「性」とは確かに系譜学的に人工的、社会的に構築された概念だけど、ゲイへの抑圧批判をするとき、フーコー自身はそれをまるっと忘れてるよね、といった
本日電車のなかでの読書は『大人は愉しい』(冬弓舎刊/鈴木晶・内田樹著)だったのだが、このなかにあるブログについての論考が面白かったのでメモ。
多くのブロガーは、クローズドの日記なら3日と書かない筆無精ではあるが、ブログならセッセと更新しているのではないだろうか。クローズドの日記とweb日記との違いは「読者の存在」しかない。やはり読んでほしくて書いているわけだ。カラオケボックスで歌うときのように。*1
斬新な論考や専門家の意見、面白い文章が読みたければ、それで生計を立てる「プロ」の文章を読んだほうがいい。けれど我々はブログを読むのである。アマチュアではあるが親近感のある(と錯覚できる)ブログを読む。カラオケで歌う友人の、素人の歌を聴くわけだ。
するとアルファブロガーというのは「(仲間内で評判の)歌の上手い知り合い」といったところだろうか。カラオケボックス(ブロゴスフィア)以外ではほとんどなんの名声も権益ももたらさないあたり、やはり似ている。
多くのブロガーが、別に歌手(ライター)デビューを目指しているわけではない、というあたりも近い。
カラオケが生まれ、隆盛したこの国で、ブログ文化が隆盛しているという話はそれなりに説得力もある。私自身はカラオケ、嫌いなんだけどね。はは。
鈴木先生の論考の根は「ブログを書くことによるキャラクター化」にある。これまたカラオケも同じとのこと。
確かにweb上の人格は、普段仕事をしたり友達と飲んだりする「わたし」とは別のものだ。カラオケで歌っている時にもそういう気分になるし、友人の歌を聴く時もそう。普段の彼とは別の「擬装した彼が歌う歌」を聴いている気がする。仮想パーティか仮面舞踏会みたいなものか。
むろんこれは、どこかに「擬装していない<わたし>」、「素の自分」がある、という話ではない。ただし人格の分離、解離というものを意識的にできるツール、という面では面白い。人は誰でも擬装しまくっているものであり、いくつかの「仮面」を持っている。それが普通だ。もしそうした「擬装化」が苦手、という人がいたとするならば、ブログはそうした社会訓練に役立つ気がする。治療とかね。人格の統合→解離→統合……が、オンライン/オフラインでわかりやすいのがいい。もう使われてたりするのかな?
*1:CDにはたいていカラオケバージョンも収められているが、カラオケ愛好者ほどには「ひとりで歌うのが好き」という人は少ない。ただし風呂場やクルマのなかなど、「自分の声が響く場所」では歌ったりする。これは自分の声がリヴァーヴ(エコー)して、別の声として(他者の声として)耳に届くからではないか、とは鈴木晶の分析

 

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